【幸福ものさし論】幸福を測るものさしの長さは他人と違うのだから、人と比べずに生きようよという話

先日、高校時代の友達から久々に電話が来た。

「俺、明日入籍するわ」との報告で、なんだか照れくさそうで、はにかんだ彼の声を聴いていると、ふいに高校時代のことを思い出した。

高校3年の文化祭の頃だ。文化祭ってやつは、本番なんかよりも準備期間が楽しかったりする。

部活を引退して、受験勉強までのモラトリアム。差し込む初夏の夕陽。野球部の声。吹奏楽部のトランペット。僕らの青春をぎゅっと詰め込んだようなあの頃、僕らは大人と子どものちょうど狭間で、クラスメイトとたくさん話をした。

子どもが生まれたらこんな教育をしたいだとか、高校卒業したらこんな人生歩みたいとか、ベビーコーンはトウモロコシの成長過程なのか、とか

真面目な内容からくだらない内容まで、もう内容もあまり覚えていないが、アクエリアス1本で、校舎のベランダでいろんな話で盛り上がった。あの頃の僕らにはアルコールなんて必要なく、暗くなるまでずっと語り合っていた。

そんな語り合いの中で、なぜか心に残っているのが、「幸福ものさし論」についての議論だ。たしか、僕が唱え始めたやつで、同意してくれた友達も多かった気がする。

その理論はこうだ。

「人は幸福を測るのに、みんなそれぞれ違う長さのものさし(定規)を持っている。例えば野球の下手な僕が、体育の授業で9回裏サヨナラヒットを打ったとする。一躍クラスのヒーローだ。きっと嬉しくて嬉しくてたまらない。下手をしたら一生思い出に残るような成功体験になるだろう。

でも、同じことをメジャーリーグで活躍するイチロー選手がやったらどうだろうか。

たかが体育の授業。たかが素人ピッチャーの球でサヨナラヒットを打っただけで、彼にとっては、”できて当然”なのである。嬉しいことは嬉しいかもしれないが、僕の体験みたいに心に残り続けるほど嬉しいものでもないだろう。

体育の授業でサヨナラヒットを打って大きな幸福感・達成感を感じる僕と、

同じシチュエーションでもほとんど幸福感を感じることができないイチロー選手。

この違いはどこからくるのだろう。そして、どちらが幸せなのだろう。

僕とイチロー選手は野球という分野で、幸福を測るものさしの長さが違うのだ。

僕のは15cmくらいの筆箱にも入る短いサイズ。

イチロー選手のは1m以上もある大きなサイズ。

僕のものさしは短いから、小さな幸せを測っても、いっぱいいっぱいになって大きな幸福感を感じられる。でもイチロー選手のものさしは長いから、体育のサヨナラヒット程度では測るに値しないほど幸福感は小さいのだ。

人はそれぞれ、幸福に対するものさしの長さが違う。

お金持ちは、高級外車に乗って、高級フレンチで食事することに幸せを感じるかもしれないが、それは彼の持ってるものさしが単に長かっただけだ。

でも僕は、きつい部活を終えた後に、マックでチーズバーガーを食べるだけで、お金持ちと同じだけの幸福感を得られる。フレンチとマックで価格は100倍くらい違うのに、チーズバーガーがもたらす幸福は、僕のものさしでは測れないくらいに大きい。

他人と幸せを比べても仕方がない。だって、それぞれ持ってるものさしの長さが違うのだから」

そんなことを考えていた高校時代から、もうすぐ10年。

僕は、自分だけのものさしのサイズ感を掴めたんだろうか。

きっと、まだだ。

あの頃の僕に怒られるかな。